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基本ライトノベル

ライトノベルについて書くブログだったはずだけど日記のブログだよ

批判はむずかしい

批判をするのは難しい。それがどのような性質のもの(たとえそれが正論であったとしても)、批判を受ける方の気持ちは波立つものだろう。的はずれな褒め方をした時に話題になることはほとんどないが、的はずれなけなし方をした場合は反撃を食らう。だから嫌な話だが、批判されたくなければ雑に批判するよりも雑に褒め続けるほうがよほどマシである。

だが、時として批判は必要なものだ。たとえば時評のような形で本を無数に取り扱ってガイドを書く場合、必然的にそこに優劣をつけないわけにはいかない。僕もブログで本について書くことが多いが、自分の感じる欠点の部分を他人に隠して紹介するのは不誠実だと感じる。だからできるかぎり正直にそうした欠点の部分については書きたいと思っている。ノンフィクションならそうした欠点は客観的な事実として指摘しやすい(論拠が不明瞭である、理屈がつながっていない、事実とはいえないなどなど)が、フィクションでは客観的な(ここでは10人中9人が賛同するような、ぐらいの意味で使っている)批判というのは難しい。だからブログでは時に批判したい点もあるがおもしろい部分もあるというフィクションの場合はスルーしがちになってしまう。

これは「紹介したい相手への誠実さ」の部分だが、時には批判は「創作に役立ててもらいたい」という場合になされるものもあるだろう。さいきん批判することの是非みたいな話題をしている人を幾人かみかけたが、元になっているのはカクヨムかなんかなのかな? 違うかもしれないが、そういう公開された場所で、ようは「作者が確実に見ることが期待される場所」で批判をあえて書くのかというのはこれまた難しい問題であるように思う。問題にしたいことのひとつは、批判とは一体何を基準にして行われるものなのかということである。「誰もが認める傑作へと向かって」批判が行われるのであればことは簡単だが、「誰もが認める傑作」などという都合のいい概念は多くの人間の間に共有されていないはずだ。

作品にはそれぞれの方向性、こうしたいという意思のもと紡がれていくものであって、そうした方向性の統一がとれていない人間からの批判は的外れのものになりやすいだろう。たとえば「自分はこの作品で5000万稼ぎたいんだ!!」と思って発表している作品に向かって「文法がなってねえ」とか「こうしたほうがもっとおもしろくなる」などともっともな批判をしても無意味なのである。おもしろさはその作品が求めるものではないのだから。またおもしろさも「受け取る側」にとって千差万別のものであって、たとえば10〜20代半ばまでの女性にウケたいと思っている作品を書いている人間に向かって30代後半の男性が「自分にはおもしろくない、もっとこうしたほうがいい」と批判されたところで作者にとってはどうでもいいことだろう。

わかりやすい「ありえる形での批判」が何かと考えてみると、まあまずは作家と編集者だろう。話し合いを重ね、作品の方向性を共有した上で「その方向性に沿ってよりよい形にするにはどうすればいいのか」を出し合っていく。でもそんなのはかなりハードルが高く、「ネット上の有象無象における批判」はほぼ無意味なのかという話になりかねない。事実誤認、単なる間違い、あるいは思い違いといった部分では有象無象における(無関係な人)からの批判も大いに助けになるものだが……。

とまあいろいろ考えていた。僕はだから、「紹介者」としての立場であれば、批判は紹介者としての誠実さとして展開するが、実作者/行動者への現実的な批判(アドバイス)としては実作者/行動者の目指すべき方向性や目的が共有できない以上しようともしたいとも思わないな、というのが今のところの結論である。