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基本ライトノベル

ライトノベルについて書くブログだったはずだけど日記のブログだよ

ただの日記

たまに自分が書いた文章を自分のブログ以外の場所で見るんだが(Wikipediaに引用されてたり、Tumblrで流れてきたり)、そのたびに恥ずかしいんじゃなくて「すげーいいこと書いてあんなあ」と思うんだよね。

すげーいいことっていうか、すごい洞察だしすごい表現だ、これを書いた奴はすげえ! と思うんだけど、しかしそれは過去の自分なんだなあ。そうなると「自分がすごい」んじゃなくて「過去のそれを書けた自分がすごい」のであって、逆に恐ろしくなってくる。これは、書いている時はぜんぜん自分はすごいとは思わないのが不思議なのだが、別にすごいことを書こうとしているんじゃなくて、その時その時で必死になって書いているからそういう客観的な目がもててないからじゃないかと思うんだけど。で、時間が経ってそれをほとんど他人の文章として眺めてみて、それを書けるかっていったら、「すげーー」と驚いているぐらいなので、書けそうにないの。これから先これを超えるものが書けるのか? と思うとなかなか怖いものがある。

僕はわりと自己肯定感が強いほうだと思うが、それを支えているのは「いまの自分」が凄いからではなくて、自分が正しい方向、善き方向へと向かっている運動体であるはずだという思い込みがあるからだ。僕は僕が正しいと思う王道を歩いているし、それは成長であったり、不完全な自分が少しでもマシになっていく過程であるかもしれないが、とにかくいまの自分がすごくなくても良い、間違いを認めて良い方向へと進んでいける人間であるならば未来はもっとまともな人間になっているはずだと思っている。だから過去より先の到達点に辿りつけないかもしれないというのはこの自己肯定感に微妙に陰りがさすわけである。

とはいえ肉体的にも知能的にも衰えていくわけであって、機能的な面での衰えはさけられないのだろう。それを最適な形で受け入れていくことができるはずだという思い込みもまた「運動」のひとつであるにしても。