基本ライトノベル

ライトノベルについて書くブログだったはずだけど日記のブログだよ

汚されたという感覚

好きな原作が非常につまらない/歪められた形で映像化(実写化、アニメ化)されるのを嫌がるのはなぜなのかというのがまったく理解できなかった。何しろ別に嫌なら見なければいいだけだし、映像化されることで原作の内容が変わるわけではないのだから無関係ではないか。とはいえ怒っている人はなぜ怒っているのかとみていると、いろいろ理由があるんだろうなというのもわかってくる。

たとえば「イメージが壊れる」とかはその筆頭だろう。抱いている原作のイメージがあって、それがずいぶん異なる形で表現されているとなんだかなあと思うのかもしれない。ただ違う形でやるのだから壊れるのは当然というか、壊れないのであればそんなものを体験する意味がどこにあるのだろうと思うが。これは、「食事中にうんこの話をされる」ことに近いのかなと僕なりに解釈している。共感覚者でもないので僕は食事中にウンコの話をしようがグロテスクな映像を見させられようがどうでもいい人間だが、なぜか世の中には食事中に汚いイメージの話をするのを嫌がる人がいるのだ。そりゃ僕だって飯を食っているのに目の前でウンコをされたら怒るが、ウンコというのはただの言葉であって匂いが漂ってくる実物ではないのだから不思議な話である。

ようするに「実体」がこの世界にはあるわけだが、我々がそこに「イメージ」の世界を重ねていて、そこは分かれている場合もあればあまり明確に分かれていない場合もあるということなのだろうか。食事をしているときに「ウンコ」という単語を聞いても匂いは漂ってこないが、少なくともイメージはよくない。嫌なら見なければいいとはいっても、実体としてはまったく別物であるはずの二者を分離することができずにイメージで結ばれてしまうがために「汚される」「壊される」と思うのではないか。

あともう一つ大きいのは、原作がおもしろくてそれを映像化なり別のメディアでつくった場合にその出来が非常に悪い/原作とは別物になっていると、元からの原作好きのイメージとは異なる評価がその作品を代表してしまうことによる弊害はあるかもしれない。「丸丸(原作)がちょうすきなんです」といって「え、丸丸(映像化されたもの)ってゴミじゃん」と言われたらまあ悲しい。あるいはまったく別物に作り変えられたものを絶賛されても話が噛み合わなくて悲しいかもしれない。

そんなことを考えていたが、まあ別にどうでもいい話である。